三題上げてみた

というわけで、去年の末頃から今年の頭くらいに書いてEvernoteに放り込んだままだった記事四題の内、三題を上げてみた(あともう一題は旅行記だったけど、国内線の機内誌の記事みたいになってしまったのと、鰻を食す話が出てくるので没。今の気分的に、生育歴や学校の思い出をあまり書きたくなくなってしまった…)。

上げた三題はこちら。

起承転結

変人・尾上菊五郎

注文を一度に一つずつすることの効用について~2016.5タイ旅行編

で、三題上げたあとの感想。

…マニアックすぎる…。

こんなの私以外、おもしろくないのでわ(私は面白かったけどね)。
まあでも自分のために書く、って最初の記事でも書いちゃったからなー。

あと、やっぱり1年近く経つと心境が変わってくる。私は仕事でちょっと特殊な文章は書くけど、自分が書きたいことを書くっていうのは日常生活では滅多になかった。なのでそういう文章を書くのが面白かったということもある。
で、今は、日本語より他言語で何か書きたい、という野望が出来てしまった。これこそ仕事上は、ほぼ、ない。(あ、でも請求書を英語で出したことはあるな…)。

というわけで、キャッチフレーズにも書いたように、本当にどこに向かうのか不明なんだけど(記事が書けるのか?)、とにもかくにもブログとして出航はしたことになる。

(アイキャッチ画像は、夕方の帯広空港です(2017.1)。)

注文を一度に一つずつすることの効用について~2016.5タイ旅行編

1.

「注文の多いレストラン」って小説があったような気がして調べてみたら、実は「注文の多い料理店」っていう宮沢賢治の小説で、宮沢賢治はあまり好きじゃないしあらすじを読んでなんだか不快になったので、とりあえずいきなりスルー。

そうそう、話はレストランの注文だった。
ここはギラギラする太陽が照りつける南国の島である。昼時になったのでご飯を食べようということになり、タクシーの運ちゃんに日本語発音でレストランの名前を伝えるが通じない。でも、しばらくしたら、「ミッタラ?ミッタラレストラン!」と理解してくれた。ここの国では、英語のcentralは「センタラ」といった具合に発音されるらしい。

その「ミッタラ」(Mitra)というお店に着くと、昼時だというのに閑散としていた。昼間は暑すぎるから、みんな始動するのは夕方からということのようである。夜遊びして昼間は寝て過ごすのがこの島の観光客の過ごし方らしい。

Mitraは、海鮮が名物のローカルっぽいお店だけど観光客にも人気の美味しいお店のようである。太陽光線が痛い。日陰だと少しはましだけど、やっぱり暑い。適当な席に陣取って、とりあえずビールを注文した。運ばれてきたチャーンビールの緑色のボトルが、見ている間にどんどん結露していく。
食事の注文はどうしようか。空のテーブルを挟んだ隣の中国系の家族は、生のパイナップルの器に盛られたチャーハンとか、生牡蠣とか、テーブル一杯に、美味しそうな料理を山盛り注文している。 生牡蠣がおいしそうだったけど、ちょっと頼むのは怖い。ロブスターや魚まるごとは、鮨屋の「時価」的雰囲気である。昼ごはんだしなー。
そこで、海老しんじょうのフライみたいな料理とか、カニのカレーとか、いくつか料理を頼んでみた。海鮮を使った料理は、さすがに島だけあってどれもおいしい。既に、運ばれてきたお皿は、ほとんど空になりそうなんだけど、多分頼んだ焼きそばが来ていない。でも、もうお腹いっぱい。伝票見たら、焼きそば代は請求されていないので注文が通っていなかったようだ。まあいいか。

2.

また別のある日、昼ごはんを食べようと出かけたのだけど、着いたら目指すお店がまだ開店していなかった。がーん。この島の飲食店は午後1時に開店するのがデフォルトなのか。しょうがないので、「お店はここだよー。」と、心配するタクシーの運ちゃんを尻目に、比較的近くにあるショッピングモールまで少し歩いて、その中にあるちょっとオシャーなレストランに入ることにした。

やっぱり、このお店も、真昼はお客さんがあまりいない。少年たちが楽しそうに立ち話をしている。高校生の夏休みのバイトか?いやいや、ここは日本じゃないし、今は夏休みでもない。もしかしたら別の国から来た勤労少年たちなのかもしれない。なんだか和気藹々としていて、とーってもゆるーい雰囲気である。日本で店員さん同士でおしゃべりしていたら、客か怖そうな店長にお目玉を食らうのじゃないだろうか。でも、ロボットみたいにしゃちこばっている店員さんを見るのはちょー苦手なので、これでいいや。

少年たちは、たまにお客さんに呼ばれ、誰かが注文を取りいく。ここでも確か、いっぺんに2つか3つくらいの料理を注文したのだけど、やっぱり1つ来ない。ならば一度の注文は1つだけとしよう。そうしよう。試みてみると、今度は忘れられない。問題なし。
そしてソフトシェルクラブのフライがめっちゃうまい。暑いぞビールもうまいぞ。

3.

やっぱり太陽がギラギラしている。島は「コ」(Ko)である。コパンガン、コナンユアン。折角高速船でビーチの綺麗な島に来たのに、US人ぽい兄さん2人は、最初から食堂にどっかり腰を下ろし、ずーっと話し込みながらビールを呑んでいる。ビーチに入りにきたん違うんかい。最後に通りかかったときは2人の前に10本くらい空のビール瓶(350ミリリットル瓶)が並んでいた。

帰りの船の集合時間が近づいたのだけど、船が遅れているとかで、別のスキューバ・ダイビング用の船に分乗して別の島に寄り、そこのお客さんもピックアップしてから帰ることになったと、ガイドさんが云っている。なんだか今書いていてもよく分からない理由だけど、とにかく、帰りは、予定の時間からは大幅に遅れることになるだろう。日本だとブーブー文句を云う人がいるのだろうけど、ここでは日本の人も含め、誰もそんなことは云わない。予定にはなかった島に行けるんだし、むしろラッキーではなかろうか。

思っていたよりずっと立派な船がやってきた。ここは、マレー半島とインドシナ半島に囲まれた内海なので、波はとても静かである。欧州人ぽい人々が、カヌーで海に漕ぎ出しておる。
余裕、よゆー、と思っているうちに、コタオ、つまりタオ島唯一の港に着いた。港の底の石が見えるくらい、水が澄んでいる。げー、デッキがない、これで陸に上がるのかい、と思ったけど、船の縁に足をかけて、痩せてて小さいけれども、プロとして信頼できる感じの船頭さんに手で引っ張ってもらい、よっこらしょっと無事上陸した。

船着き場から島の中に入ろうとする乗客に向かって、タクシーの運ちゃんたちが「テキシー、テキシー!」と必死に呼びかけている。このあたりのタクシーの人は、呼び込みがあまりにも必死なので、子供を大学生に通わせるために学費をたくさん稼がねばならないのだと思うことにした。でも、大概のお客さんは、宿から迎えが来てるんだけど。あっ、タクシーに乗りたいお客さんがつかまったね。よかったよかった。
灰色の猫が、船着き場の通路のめっちゃ邪魔な位置で伸びている。目が神秘的に真っ青。これが本場のシャム猫さんかー。でもそんな邪魔な位置で寝てたら、そのうち誰かに踏まれるんちゃう、と思っていたら、飼い主らしき近所の子供が猫をどこかへ連れて行った。撤収されるときも、おとなしくだらーんと伸びたままである。

4.

うっかり日焼けしてしまったふくらはぎがめっちゃ痛い。島で入手したきゅうりのジェルを塗ると少しましになっただのけど、機内持ち込み荷物に入れていたら、規定違反ってことで、トランジットの荷物検査で没収され、哀れジェルはゴミ箱へ。えーん。

昨日食べた魚の練り物のせいで、食あたりしたために全く食欲がない。空港のカフェでトランジットの時間を潰すことにした。
カフェアメリカーナを1つ、注文してレジでお金を払う。
…待てど暮らせどコーヒーは来ない。それどころか、レジ裏で店員さん同士、おしゃべりしながらレジのお金を数え始めた。おもむろにレジに進んでレシートを見せながら「カフェアメリカーナ!」と云ったら、頭に赤いリボンでおめかしした店員さんが「きゃーごめんなさい、(奥へ)ちょっと、あんた忘れてるわよ!」って対応してくれたので、ようやくコーヒーがやってきた。ふと、KABA.ちゃんってまだ活躍しているのか?と考える。最近は、TVを全然視ないので知らない。

こうして、「一度の注文は1つだけ」という作戦すらも見事、スワンナプーム空港で失敗に終わったのであった。だけどそれが何だろうか。注文を忘れていたら「忘れているよ」といえばいい。注文を忘れようが、スケジュールどおりに行かなかろうが、今述べてきたとおり、どれもまあいいか、というだけの話である。
だけど、空港では、(もちろん当然の話だが)規定違反のジェルのチューブはきっちり発見して没収するし、さっき述べた島々では、ゴミで環境を汚さないように、ペットボトル持ち込み禁止が徹底されている。正直、沖縄あたりにはもっと珊瑚礁が綺麗な場所はあるように思うけれど、ペットボトル持ち込み厳禁の島は聞いたことがない。

わたしたちの社会は、どうでもいい話を、どうでもよくない話にしてしまって、どうでもよくない話を、どうでもいい話にしてしまっている。何が問題かと問われれば、そちらの方が余程問題だろう、そう答える。

(アイキャッチ画像は、サムイ島の当該レストラン(笑)から見た海です(2016.5)。)

 

変人・五代目尾上菊五郎

1.

去年こういうツイートをしてみたら、結構多くの人からリツイートといいね、をして頂きました。

 

明治頃までの日本の人の話を色々調べると、奇人変人ばっかりだよ。「行き過ぎた個人主義」どころの話じゃない。 日本会議界隈の語る「日本人」のイメージって、どっから来たの?

 

このときわたしの頭のなかで明治の変人筆頭に挙がっていたのが、五代目尾上菊五郎です。五代目菊五郎は、幕末から明治にかけて活躍した人気歌舞伎俳優で、九代目市川團十郎と共に、近代歌舞伎の基礎を築いた名優とされています。未だに梨園で市川團十郎家(成田屋)と尾上菊五郎家(音羽屋)が大きな勢力を保っているのは、この二人の功績によるものです。

「白浪五人男」であるとか「弁天小僧」といった呼び名は、歌舞伎観たことがない人も聞いたことくらいあるんじゃないかと思うけど、これは「青砥稿花紅彩画」(あおとのぞうしはなのにしきえ)という人気演目で、五代目菊五郎を主人公「弁天小僧菊之助」として宛書きした作品です。

この演目の一番の見所は、若い女性に化けた弁天小僧が大店でゆすりたかりを画策して男と見破られる、という場面で、美少年が娘さんに化ける、という倒錯美が大衆受けをしたのだけど、この演目が出来たきっかけが、両国橋の上で女物の着物を着た美青年(菊五郎)を、劇作家が見かけ、その姿を錦絵に描いてもらい、ついには芝居にもなった、という、まるで、少女マンガだかタカラヅカだかの一場面のような伝説もあるようです。

2.

九代目團十郎も堅物だけど進歩的なところもあって、娘たちには結婚相手として歌舞伎俳優を要求しなかった(でも、結果的に、銀行員だった娘婿が「市川三升」という中継ぎ的歌舞伎俳優にならざるを得なかったのは運命の皮肉)、という個性的な人なんだけど、それでもやっぱり五代目菊五郎のことを変人だと思ってしまうのは

・戊辰戦争のとき、現地取材に上野の山に弟子と一緒に出かけたら、門を閉められて山から出られなくなりそうになった(新政府軍の兵士に人足と間違えられて畳を運び出すように云われたので、九死に一生を得た)
・知り合いの家がぼやになると、ここぞとばかりに火消しの扮装をして駆けつけた(菊五郎は火消しの扮装をしている自分が大好き)
・スタッフの一人の家に幽霊が出ると聞いたので、「今度出たらばどういうなりだか、よく見覚えて来てくれ」と頼み込み、そのまんまの幽霊の姿を舞台に登場させた(「東海道四谷怪談」の小仏小平の幽霊)。
・ 「風船乗評判高楼」(ふうせんのりうわさのたかどの)を始めとする、数々のキワモノ新作歌舞伎

といったところかなあ。

 

※矢内賢二著 「明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」より。

 

でも、実際のところ、こうやって書き出してみると、変人とも思えるエピソードの数々も、凝り性だった菊五郎の性格を良く表すエピソード、例えば左官屋の役を演じるために左官屋に習いに行き、魚屋の役を演じるために魚屋に弟子入りし、イギリス人の風船乗りスペンサー役を演じるために英語学習にいそしみ、ついには弟子たちをして「五代目の宗五郎は、魚の匂いがしましたよ。」と言わしめた、といったエピソードの範疇に入っているような気がして、むしろ菊五郎が天才として自由闊達に生きてきたことの証左なんじゃないか、という気もしないでもない。

こんな菊五郎ですが、驚異の身体能力に裏付けされた観客を大いに楽しませる能力と、江戸っ子らしく短気なんだけど実はちょっと小心者、っていう愛嬌のあるキャラクターがファンに大変愛されていたようで、大概のことは「音羽屋らしいや」で皆に許されていたっぽい。

3.

若手歌舞伎俳優に稽古を付けているヴェテラン歌舞伎俳優に、インタヴュアーが「いかがですか?」と訊ねている。そのヴェテラン歌舞伎俳優は「うーん。お行儀が良すぎるんやなあ。」と答えた。確かに観客の目から見ても、美しくて上手いがアンドロイドのようでどこか情感に欠けがちであることは認めるし、そのヴェテラン俳優は芸事に厳しいことで有名で、若手を褒めることは滅多にないのだけど、ちょっとその若手俳優が気の毒な気がした。

だって、梨園のように上下関係が厳しい場所で、いくら御曹司に生まれたからといって、少しでも出過ぎた真似をすれば叩かれ、プライヴェートな問題でも運悪く発覚しようものなら今度はマスコミ始め世間様に全力で叩かれる、で済めばよいが、下手をしたら叩き潰されかねない窮屈な世の中に、彼は生まれついたのである。だから、ずーっと優等生でやってきたのだ。

ところが俳優というのは難しい仕事で、どこか普段の生活態度っていうものが芝居からも透けて見えてしまう。女好きの人はなんだか悪い色気が出るし、アホっぽい人はやはり何やってもアホっぽく見えてしまうし、酒好きの人の演じる酒乱の役を観てると、もちろん芝居であることは充分承知の上なんだけど「本当は呑んでるんじゃないか?」とつい疑ってしまう。優等生は所詮優等生で、自分の欲望を抑えきれなくて、うっかり重大犯罪に手を染めてしまう、やさぐれた若者はやっぱり似合わない。「だったらもっと遊ばないとね~」みたいな訳知り顔のミソジニーオッサンの意見に従うことは、「女は芸のこやし」みたいな、あさっての方向に行ってしまい、妻や相手の女性を悲しませるだけでなく、将来の梨園をしょって立つ子も傷つけ、そういう行為に及んだ当の本人にものすごいマイナスパワーとなって返ってくることになるので、お勧めはしません。だけど、とにかく人間は誰にだって欠点というものがあるというのは異論のないところだろうに、そういう欠点だらけの人間に対し、極端に不寛容な世の中というものは、若い人の才能を潰してしまう。寛容さのかけらすらもなく、規律を守る従順さを要求したのに、それを忠実に守った若者を「お行儀が良すぎる」と論評するのは酷である。こんなことではスターは世に出ない。芸能界は、今やどの分野でもそうなりつつある。

4.

日本の人口の50%は、今や50代以上だそうで、こんなに年寄りが多くて頭が重い社会の出現は未曾有の事態である。しかも、その社会には、未だに目上の男の人に目下の者が物申すこと、特に女の人や若い人がそれをすることは失礼であるという、社会にとっては有害無益でしかない不文律が厳然と屹立している。

チェルノブイリ原発事故のとき、子どもたちの避難を強硬に主張したのも女の人たちだし、旧ソ連が隠蔽しまくったデータを、ソ連崩壊のどさくさに紛れて持ち出したのも、女の人たちだったという。

実は、こういう「ちいさき者たち」の声を聴かないっていうことは、実の生る前の果樹の幼木を今すぐ役に立たないからと伐採することにも等しくて、その後には貧しい荒れた荒野しか残らない。ちいさき者たちの声を聴かない老人が暴君として君臨し続ける社会のその行き着く先は、破滅しかないのは、今まさに、わたしたちが目の当たりにしているとおりである。

火消しの扮装が好きで好きでたまらないなら、別に、火消しの扮装を見せびらかしに知り合いの家に押しかけて迷惑がられても良いじゃないか。相手役の美形女形と腕を組んで銀座を歩いて噂になったっていいし、年寄りからはキワモノ、新しいことに手を出すのはもっと芸を磨いてからとそしられようが、西洋物やマンガネタをどんどん新作歌舞伎にしたい、ってヒヨッコみたいな若手が意見を云ったって良いじゃないか。芝居に時事ネタを入れ事して、観客を爆笑させつつも余りに長すぎるんで、さすがにちょっとうんざりさせたって良いじゃないか。こういう自由闊達を締め付けず、むしろ愛してきたことで、わたしたちの先祖は、社会や文化をいきものとして発展させてきたのだけど。

ちいさき者たちに、寛容と自由闊達さを、と切に願わざるを得ません。(もう手遅れかも知れないけど)

(アイキャッチ画像は、スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」2幕終了直後の幕間(2017.11)です。)