先生は読書感想文を書けという。感想文の書き方は「起承転結」を守ればいいという。「起」で話題を始め、「承」でその話題を承け、「転」で話題を変え、「結」で結論を書けばいいという。
大人は誰だって、子供なんて面倒でうるさいものだと考えているようで、とにかく自分のいうとおりにしろ、と命令しかしない。「私はこう思う」と云おうものなら、「そんなふうに思うのはおかしい」とケチを付け、そういう風に感じるべきではないと云う。ずっとこんな風に接して来られたら、何に対しても特段何の感想も湧かないし、夏休みだからって急に読書感想文が書けるようになる訳じゃない。「起承転結」なんて説明された日には、「結」でオチを必ず付けないといけないじゃないか、とプレッシャーになって、余計に何も書けなくなってしまうのは、私が関西人だから、ではないと思う。
日本で日本の学校教育を受けて育った人であれば、一度や二度は、道徳の授業で作文を自分の思うとおりに書いたら、先生が内容を理解出来なくて悪い点を付けられたんで、仕方がないので「友達は大事だと思います」とか「思いやりをもって接しなくてはならないと思いました」とか、先生のレヴェルまでわざわざ降りてあげて、先生にも理解出来るように書いてあげて、そこそこの点数を付けてもらう、という経験をしたことがあるに違いない。こんなことでは作文が嫌いになるのが普通の感覚だと思う。
わたしもご多分に漏れず、作文なんて書くことが何もないじゃん、の人だったんだけど、「起承転結」なんて意識しないで思いついたことをそのまま書いてみると、これが案外楽しいことに気が付いた。一文の得にもならない文章を、自分のためだけに書くことは、存外に楽しいものである。ではあるんだけど、モノローグはモノローグの域を出ていなくて、とてもじゃないけど「あたたかみのある知性」のある文章、の域には全く達していません。わたしがものを書くのは、ある意味、リハビリのようなものでしかなくて、「ネットでの発信は、へたに自分の正直な気持ちを綴ると炎上する、『役に立つ情報の発信』でないと今は成り立たない」と主張するウェブ記事も見かけたこともあって、ちょっと今ひるんでもいるのだけども、何の役にも立たない、こういう「自分で読みたいものを自分で書く」という、「役に立つ情報の発信」という本来ウ変てこりんなスタイルが暫く続くかも知れません。
(一番最初の投稿がこんなんでいいの!?)
(アイキャッチ画像は、雲仙温泉(2016.11)です)。