我慢しない人々~仮名手本忠臣蔵

長くなるので…

Twitterアカウント @tamarind2015 では、あまり趣味の話はしないようにしているのだが、私が現代ニッポンを考察する材料の一つにしているものが芝居(歌舞伎)なので、ちょこちょこ書くことがある。

そもそも、観劇なんて、その舞台の背景となっている文化を考察しないと楽しくなかったり理解ができないものである。

そして、歌舞伎についてその背景事情を調べていると、日本で「伝統」とされているものが嘘っぱちであることがはっきりと判ったりする。

しかも、昨今は極右カルト勢力が「伝統」を利用して日本の人を都合のいい方向で統制しようとしている。

こういう事情から、どうしてもTwitterコメントしたいな、コメントせざるを得ないな、と思うことが多い(みんな知らなくてピンと来ないようで、ツイートしても反応は鈍いが…)。

前置きが長くなった。

そういう流れで、今回も以下のツイートをしたところ、「仮名手本忠臣蔵」における「現代と江戸期のメンタリティの違い」を説明して欲しいという要望を頂いた。奇特な…いいえ、有り難いご要望である。

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それで、「仮名手本忠臣蔵」における「考えの足りない人々」について、TwitterのTLで説明を試みることになったのだけど、いざ始めてみると、以下、「主君編」だけでもかなり長くなってしまった。少なくとも、到底、Twitterに相応しいヴォリュームとはいえない。

そこで、ブログにまとめてみた、という次第である。

まだ、他にも色々あるのだろうけど、とりあえず「主君編」、「家臣・家来編」、「関係ない町人・農民編」に分類して説明してみる。

主君編

・最初師直にいじめられていたのは塩谷判官ではなくて別の人(桃井若狭之助)

・ところが桃井家家臣加古川本蔵は若狭之助の思慮浅薄を心配し、先回りして師直に賄賂を贈ったので師直の機嫌が直り、若狭之助はやり返す機会を失う。なので我慢が足りない人は塩谷判官ではなくて桃井若狭之助

・代わりに色恋沙汰の怨恨(師直は塩谷判官の妻顔世御前に横恋慕)から師直からいじめられるのが塩谷判官

・塩谷判官は師直に切りつけるが、ここでも本蔵が後ろから抱き留めたので師直は殆ど傷も負わずに逃げてしまう。

・「刃傷の場」が、本蔵がいなければ当然師直は斬られただろう場面として描かれる、ということは、公然と侮辱したら殺されても文句は言えないという価値観はあっても、塩谷判官が我慢が足りない人だとは考えられていない。

家臣・家来編

お軽・勘平

・塩谷家家来・早野勘平は、勤務時間中に恋人の塩谷家腰元・お軽とデートしていて、主君の大事に駆けつけられない。デートっていうか、城を出て、二人で人目に付かないところに行ってえっちしていたらしい。昔の芝居ってこの辺りの表現とか台詞はわりと露骨で際どい。

・そもそも師直が塩谷判官に対して機嫌が悪くなったのは、顔世御前からお断りの手紙が判官と対面中っていう最悪のタイミングで来たからなのだけど、その手紙は、お軽が勘平に会いたくて持って行ったものだった。別にその日でなくてもよかったのに!

・勘平は結局その後の六段目で色々早合点して絶望して腹を切って死んでしまう。本当は死ななくてもよかったのに。「色にふけったばっかりに」という、イケメンでないと成立しない有名な台詞あり。

・でもお軽・勘平の登場場面は、美男美女カップル設定なので人気のある場面(本当はね…。今は役者名を見て「………。」となること多し)。

加古川本蔵

・塩谷家中の不満は、塩谷家は家取り潰しになったのに対し、師直が殆ど負傷もせず生きている上おとがめもなし、というところ。

・加古川本蔵が賄賂を贈ったばっかりに塩谷家にとばっちりが来た、大体賄賂を贈るなんて武士にあるまじき卑怯な振る舞いである!こんなことになるんだったらいっそ判官様が師直を斬ってしまえばよかったのに。余計なことしやがって。というのが塩谷家中の本蔵に対する気持ち。

・一番後悔しているのは本蔵。本蔵もよかれと思ってやったことだったのだがこんな結末に。ということで結局、本蔵は自分の命をもってこの落ち度を償う(九段目)。

関係ない町人・農民編

・十段目、「敵討ちを助太刀する町人」がテーマになっている。町人が格好良く描かれている場面で、江戸時代には超人気がある場面だったらしい。今は殆どかからない…。

・同様に、七段目では、お軽の兄・寺岡平右衛門は農民出身であるにもかかわらず、功績により敵討ちに加わることを許される。

・橋本治先生などは、「仮名手本忠臣蔵」を「敵討ちに加わりたかった町人の物語」とおっしゃっている(「浄瑠璃を読もう」、まだ途中までしか読んでない…。)

まとめ

ね、我慢している人ってあんまりいないでしょ。そもそも、「仮名手本忠臣蔵」は敵討ち以外のスピンオフが異常に長いのであった。しかもそういう場面の方が人気がある。私も、「仮名手本忠臣蔵」を観ると、いつも最後の討ち入りの場面ってとってつけたようで面白くないなー、と思う。「仮名手本忠臣蔵」においては、討ち入りはもはや本題ですらなく、どうでもいいのだった。

これに対し、いわゆる「赤穂事件」そのものを題材とした現代の「忠臣蔵」ドラマは、確かに、「主君は我慢が足りなくて駄目だった。部下が我慢して成功を成し遂げた」というテーマであると思うけど、これは少なくとも江戸期の町人メンタリティではないと考える。

今でもたまに、大正時代以降に書かれた「新作歌舞伎」として、(当時にしては)リアルな「忠臣蔵」がかかることがあって、私も観たことがあるけど、これも正直退屈。劣化した時代劇のようななんというか。少なくとも、生き生きした江戸時代の町人の息吹は感じられないのであった。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」考

1.

最近、本棚を漁っていたところ、2003年7月版「月刊ミュージカル」が出て来た。表紙は、2003年7月から9月まで公演が予定されていた、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャン役にキャスティングされた4人のバルジャン役者が、手を前に差し伸べてがっしりと手を取り合って、互いの健闘を祈り合っている姿である。

バルジャン役者は、伝統的に大男がキャスティングされることになっているため、皆、背が高く舞台映えしてかっこいい。そして若い。当時、年寄り年長者扱いされていた山口祐一郎さんですら、当時46歳である。

私の実質的なミュージカル観劇人生も、ここからスタートした。感無量である。

2.

「レ・ミゼラブル」といえば、初演は1987年で今年で初演から30年、何百公演も観たことがあるファンが大量にいるお化け演目である。「どうして同じ演目を何回も観るのか」、私も言われたことがある。そしてそう考えるのも当然だと思う。しかし、また、何度も観たくなるという事実にも納得する。「好きなアーティストのライブで上演される楽曲は、CDの中に入っていて何度も聞いたことがあるから、ライブには行かない」という人はいないと思う。生の芸術というものはそういうものだ。だからなんでミュージカルや芝居だけそういうことを言われなきゃならんのだ、とちょっと私は不満である。

しかし、あえてこれを考察してみることにしよう。

なぜ、何度も観たくなるのか。それには色々な理由がある。

まず、原作の良さをミュージカルが引き継いでいることが挙げられる。どの主要キャストも、おいしい場面や名曲を持っているいい役ばかりである。個人的には、女性のキャストの描き方が典型的過ぎ、あまり魅力的ではないなと思うけれども、これはミュージカルのせいではなくて、むしろ原作者ヴィクトル・ユーゴーのせい、もっといえばユーゴーのいた時代がそういう時代であったから、だろうと思う。

「レ・ミゼラブル」の登場人物は、ユーゴーが自分の中の色々な面をそれぞれの人物に当てはめて創造したといわれている。

そして、そういう多面性、二面性はミュージカルの中でも意識されていて、例えば、脱獄囚であるバルジャンを執拗に追いかけるジャベールとは、裏と表の関係にある。バルジャンがミリエル神父に救われて改心する場面で歌う「バルジャンの独白」と同じメロディーラインを、ジャベールは「自殺」で歌うことになる。方や、愛によって救われて改心し、方や、愛で一旦は救われたものの、自分の中にある厳格な法との矛盾に耐えられず死んでしまう。

この二面性をひとつの楽曲の中で表現する、という巧みさに唸らされれると共に、二人の登場人物の辿ったその後に思いを寄せると、なんだかぞっとしてしまう。

3.

次に、「レ・ミゼラブル」は、たった3時間(休憩が30分入るから実質2時間半)の中に、あの大作のエッセンスを詰め込んであるが、それがメロディに載ることで、仮に、初見時はめまぐるしいと思っても、リピート時にはだんだんそれが気持ち良くなってくる、という現象が起こる。

大体、このミュージカルをリピートしようと思った時点で、もう原作には当たっている頃だろうが、プロローグの音楽が鳴ると同時に、ミュージカルには入りきらなかったエピソードが勝手に脳内補完し始め、幾らでも物語の世界に感情移入ができてしまう。

リピートすると、ミュージカルの細かい演出設定にも目が届き始め、その意味にだんだん気が付くようになってくる。こうなると殆どマニアである。

日本版で特有な事情として、東宝は、人気役者を一つの役にダブル、トリプル、しまいには最初に述べたように4人(クワトロ)で割り当てるようになっていた。その場合は、やはりそれぞれのキャスト毎の特徴や、他の役者との相性までが気になってくる。一度観たら、次に別の人とはどうだったかな…などと考え始めると、また観て確認したくなってくるのである。組み合わせは、ほぼ無限に近い。とてもじゃないけど、幾らお金を掛けたとしても、満足できるまで観るなんてできるもんじゃない。こうやって、どんどん東宝の罠にはまってリピーターと化してくるのである。

初演は、バルジャンとジャベールを、鹿賀丈史さんと滝田栄さんが交互に演じていたらしいが、これは私だって観てみたいと思う。

あとは、もちろん楽曲がどれも素晴らしいのと、あのレンブラントの絵のようだと言われた、ほの暗い舞台の照明を生かした演出とセット、特に、舞台上手と下手から登場し、様々な形が合体することで、パリの貧民街や学生達の立てこもったバリケードを表現する、旧演出のセットは素晴らしかった。

4.

2003年以降、一時期「レ・ミゼラブル」のリピーター化し、各公演の感想までメモしていた私だが、旧演出が新演出に変わって、あのバリケードのセットがなくなり、代わりにCGを多用したペラペラの演出に変更になったのに失望してしまい、新演出以降の「レ・ミゼラブル」は一度しか観ていない。2013年以降、2003年のキャストが一掃されてしまったことも大きい。感想のメモは、当時使っていたパソコンがクラッシュしたときにデータが飛んでしまった。

映画版はそこそこの物には仕上がってはいると思うけれども、あの舞台版を最初に観たときの感動とはほど遠い。この頃は、何事につけても、もう新しいコンテンツが作れず、これまであるものを薄めて高く売りつけるというビジネスモデルにちょっとうんざりしている。

だけども、あの頃の「レ・ミゼラブル」が私の心の中で星(Stars)の如く燦然と輝いていることには変わりがない。

“Stars”というのは、ジャベールが「レ・ミゼラブル」の中で歌う、ソロの名曲のタイトルでもあります。

 

変人・五代目尾上菊五郎

1.

去年こういうツイートをしてみたら、結構多くの人からリツイートといいね、をして頂きました。

 

明治頃までの日本の人の話を色々調べると、奇人変人ばっかりだよ。「行き過ぎた個人主義」どころの話じゃない。 日本会議界隈の語る「日本人」のイメージって、どっから来たの?

 

このときわたしの頭のなかで明治の変人筆頭に挙がっていたのが、五代目尾上菊五郎です。五代目菊五郎は、幕末から明治にかけて活躍した人気歌舞伎俳優で、九代目市川團十郎と共に、近代歌舞伎の基礎を築いた名優とされています。未だに梨園で市川團十郎家(成田屋)と尾上菊五郎家(音羽屋)が大きな勢力を保っているのは、この二人の功績によるものです。

「白浪五人男」であるとか「弁天小僧」といった呼び名は、歌舞伎観たことがない人も聞いたことくらいあるんじゃないかと思うけど、これは「青砥稿花紅彩画」(あおとのぞうしはなのにしきえ)という人気演目で、五代目菊五郎を主人公「弁天小僧菊之助」として宛書きした作品です。

この演目の一番の見所は、若い女性に化けた弁天小僧が大店でゆすりたかりを画策して男と見破られる、という場面で、美少年が娘さんに化ける、という倒錯美が大衆受けをしたのだけど、この演目が出来たきっかけが、両国橋の上で女物の着物を着た美青年(菊五郎)を、劇作家が見かけ、その姿を錦絵に描いてもらい、ついには芝居にもなった、という、まるで、少女マンガだかタカラヅカだかの一場面のような伝説もあるようです。

2.

九代目團十郎も堅物だけど進歩的なところもあって、娘たちには結婚相手として歌舞伎俳優を要求しなかった(でも、結果的に、銀行員だった娘婿が「市川三升」という中継ぎ的歌舞伎俳優にならざるを得なかったのは運命の皮肉)、という個性的な人なんだけど、それでもやっぱり五代目菊五郎のことを変人だと思ってしまうのは

・戊辰戦争のとき、現地取材に上野の山に弟子と一緒に出かけたら、門を閉められて山から出られなくなりそうになった(新政府軍の兵士に人足と間違えられて畳を運び出すように云われたので、九死に一生を得た)
・知り合いの家がぼやになると、ここぞとばかりに火消しの扮装をして駆けつけた(菊五郎は火消しの扮装をしている自分が大好き)
・スタッフの一人の家に幽霊が出ると聞いたので、「今度出たらばどういうなりだか、よく見覚えて来てくれ」と頼み込み、そのまんまの幽霊の姿を舞台に登場させた(「東海道四谷怪談」の小仏小平の幽霊)。
・ 「風船乗評判高楼」(ふうせんのりうわさのたかどの)を始めとする、数々のキワモノ新作歌舞伎

といったところかなあ。

 

※矢内賢二著 「明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」より。

 

でも、実際のところ、こうやって書き出してみると、変人とも思えるエピソードの数々も、凝り性だった菊五郎の性格を良く表すエピソード、例えば左官屋の役を演じるために左官屋に習いに行き、魚屋の役を演じるために魚屋に弟子入りし、イギリス人の風船乗りスペンサー役を演じるために英語学習にいそしみ、ついには弟子たちをして「五代目の宗五郎は、魚の匂いがしましたよ。」と言わしめた、といったエピソードの範疇に入っているような気がして、むしろ菊五郎が天才として自由闊達に生きてきたことの証左なんじゃないか、という気もしないでもない。

こんな菊五郎ですが、驚異の身体能力に裏付けされた観客を大いに楽しませる能力と、江戸っ子らしく短気なんだけど実はちょっと小心者、っていう愛嬌のあるキャラクターがファンに大変愛されていたようで、大概のことは「音羽屋らしいや」で皆に許されていたっぽい。

3.

若手歌舞伎俳優に稽古を付けているヴェテラン歌舞伎俳優に、インタヴュアーが「いかがですか?」と訊ねている。そのヴェテラン歌舞伎俳優は「うーん。お行儀が良すぎるんやなあ。」と答えた。確かに観客の目から見ても、美しくて上手いがアンドロイドのようでどこか情感に欠けがちであることは認めるし、そのヴェテラン俳優は芸事に厳しいことで有名で、若手を褒めることは滅多にないのだけど、ちょっとその若手俳優が気の毒な気がした。

だって、梨園のように上下関係が厳しい場所で、いくら御曹司に生まれたからといって、少しでも出過ぎた真似をすれば叩かれ、プライヴェートな問題でも運悪く発覚しようものなら今度はマスコミ始め世間様に全力で叩かれる、で済めばよいが、下手をしたら叩き潰されかねない窮屈な世の中に、彼は生まれついたのである。だから、ずーっと優等生でやってきたのだ。

ところが俳優というのは難しい仕事で、どこか普段の生活態度っていうものが芝居からも透けて見えてしまう。女好きの人はなんだか悪い色気が出るし、アホっぽい人はやはり何やってもアホっぽく見えてしまうし、酒好きの人の演じる酒乱の役を観てると、もちろん芝居であることは充分承知の上なんだけど「本当は呑んでるんじゃないか?」とつい疑ってしまう。優等生は所詮優等生で、自分の欲望を抑えきれなくて、うっかり重大犯罪に手を染めてしまう、やさぐれた若者はやっぱり似合わない。「だったらもっと遊ばないとね~」みたいな訳知り顔のミソジニーオッサンの意見に従うことは、「女は芸のこやし」みたいな、あさっての方向に行ってしまい、妻や相手の女性を悲しませるだけでなく、将来の梨園をしょって立つ子も傷つけ、そういう行為に及んだ当の本人にものすごいマイナスパワーとなって返ってくることになるので、お勧めはしません。だけど、とにかく人間は誰にだって欠点というものがあるというのは異論のないところだろうに、そういう欠点だらけの人間に対し、極端に不寛容な世の中というものは、若い人の才能を潰してしまう。寛容さのかけらすらもなく、規律を守る従順さを要求したのに、それを忠実に守った若者を「お行儀が良すぎる」と論評するのは酷である。こんなことではスターは世に出ない。芸能界は、今やどの分野でもそうなりつつある。

4.

日本の人口の50%は、今や50代以上だそうで、こんなに年寄りが多くて頭が重い社会の出現は未曾有の事態である。しかも、その社会には、未だに目上の男の人に目下の者が物申すこと、特に女の人や若い人がそれをすることは失礼であるという、社会にとっては有害無益でしかない不文律が厳然と屹立している。

チェルノブイリ原発事故のとき、子どもたちの避難を強硬に主張したのも女の人たちだし、旧ソ連が隠蔽しまくったデータを、ソ連崩壊のどさくさに紛れて持ち出したのも、女の人たちだったという。

実は、こういう「ちいさき者たち」の声を聴かないっていうことは、実の生る前の果樹の幼木を今すぐ役に立たないからと伐採することにも等しくて、その後には貧しい荒れた荒野しか残らない。ちいさき者たちの声を聴かない老人が暴君として君臨し続ける社会のその行き着く先は、破滅しかないのは、今まさに、わたしたちが目の当たりにしているとおりである。

火消しの扮装が好きで好きでたまらないなら、別に、火消しの扮装を見せびらかしに知り合いの家に押しかけて迷惑がられても良いじゃないか。相手役の美形女形と腕を組んで銀座を歩いて噂になったっていいし、年寄りからはキワモノ、新しいことに手を出すのはもっと芸を磨いてからとそしられようが、西洋物やマンガネタをどんどん新作歌舞伎にしたい、ってヒヨッコみたいな若手が意見を云ったって良いじゃないか。芝居に時事ネタを入れ事して、観客を爆笑させつつも余りに長すぎるんで、さすがにちょっとうんざりさせたって良いじゃないか。こういう自由闊達を締め付けず、むしろ愛してきたことで、わたしたちの先祖は、社会や文化をいきものとして発展させてきたのだけど。

ちいさき者たちに、寛容と自由闊達さを、と切に願わざるを得ません。(もう手遅れかも知れないけど)

(アイキャッチ画像は、スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」2幕終了直後の幕間(2017.11)です。)